推しの子の続きをみている。リアリティーショーまで見て、思ったことを書いておく。
推しの子では、情報化社会での虚構を作り出すクリエイターの在り方、夢を現実へ変えるために進む浮き沈みをすごくリアルに映しだしてると思う。
アイドルは、メディアを通して自分を情報化させる。演じている虚構としての自分は、どう思われようが、あくまでキャラクター。自分自身ではない。しかし、推しの子では、リアリティショーで本当の自分をメディアにさらけ出した役者がいた。彼女は番組内で失敗し、批判され、傷ついた。現実を悪く言われれば、自己否定につながってしまう。
でも本当にそうなのか?本当のことを放送するリアリティーショーだって、現実そのものではなく、メディアのフィルターがかかっている。悪く放送されただけで、別の視点から見ればいい面だってあったはず。
嘘と本当のコントロール
SNSでの自分の評判、いいねの数。売上数。価値が数値化された世界。(=コミュニケーション資本主義)常にアイドル自身とネットの評価とが相互に影響を与え合っている。
岡田斗司夫のいう評価経済社会ともいえる。
その時代の中での自分の守り方。嘘は自分自身を守る最大の手段。アクアはそういった。
物語の中では、黒川あかねがリアリティーショーで素の自分で演じ、SNSでの評価が自分自身への評価に直結してしまう。悪評がたち、皆に求められなければ私は存在価値がないと、そう思ってしまう。そして誰にも相談しないまま、自殺へ・・・。
自分を出さなければ、自分が否定されたことにはならない。だからこそ、嘘を演じることが自分を守ることにつながるという話。
いっぽうで、台本なしで演者たちの素の交友関係を映すはずのリアリティショーも、あくまでエンターテイメント。そこにも編集者の意図があり、それに反する黒川あかねのポジティブなシーンはカットされる。番組の盛り上がりのために、黒川あかねが失敗をしたことを番組はわざと強調し、SNSではバッシングが伸び、メディアはそれで注目を浴びる。黒川あかねはその犠牲になった。
作品=自分ではない
この考えを聞いて、美術予備校時代を思い出した。僕も、自分自身の内面性を作品に出すことが、作品の良さだと思っていた時があった。でも、作品が自分自身になることはない。作品はあくまで作品、僕自身じゃない。それは他者と同じ。他者が自分の思い通りにならないとき、相手の気持ちを考えないと、うまくいかない。同じように、作品をよくするためにはそれが自分だと考えるんじゃなく、客観的に、今作品が何を欲しているのか、作品に何をしてあげられるのか、そういう視点が大事だとよく言われていた。
僕が僕のために作品を作るのは、番組の編集者が恣意的に作品を支配することにも繋がり、視点が欠けている。うまくいかない=自分がダメ、ではなく、作品が発する声を聴いて自分の視点と作品からの視点を相互に反映させる。それがきっとうまくいく。
嘘が生む救済
映画「私を食い止めて」では、自分の犯した罪の記憶を改ざんし、イマジナリーフレンドのせいにした。人格を分裂させ、罪悪感をもう一人に負わせることで、自分は悪くないと、自分を守っていた。
アニメ「serial experiments lain」でも、主人公の玲音(れいん)は、同級生の自慰行為を覗き見てSNSでそのうわさを流す。玲音はそのせいで皆から嫌われることになった。しかし、玲音はSNS上の自分をlainという新しい人格として分裂させ、噂を流したのは自分ではないと思っている。
「私を食い止めて」では、嘘の心地よさは痛みからの逃避先になり、現実の苦痛と恐怖への挑戦から逃主人公を守るのと同時に、安全地帯にとどめさせることで成長を止めさせる。
lainも自分の罪を受け入れず、全部なかったと思い込めばいいと記憶を書き換えてしまう。
痛みから一時的な救済はあっても、やはりそこから、それが幻であることを認めなければいけない。
自分の罪を認めた前者は、分裂した人格を一つに統合できた。後者は罪を忘れることを望み、嘘に嘘を重ね続け、現実を正しく見ることができなくなった。
痛みが強すぎる場合は、休息が必要になるはずだ。心が癒えて嘘が不要になれば、いつかは現実へもどる。
嘘から現実への帰還
嘘というのを推しの子のリアリティーショーでいうなら、編集者の視点が嘘をつくっているになる。役者が素でいても、どこをアップして、どの構図から写し、どのシーンをカットするかで見ている人が受け取る現実が変わる。役者を正義にも悪にも、編集次第で変えることができる。
じゃぁ、その一方的な視点から現実に帰るには、他の視点を得ることが必要だし、さらに単に他の視点を得るだけでもいけない。ほかの視点に移ったら、気づいたらまた別の視点が作る嘘の中に閉じ込められてしまうから。資本主義から共産主義にうつるのではなく、その間、右って何だっけ、左って何だっけ・・・という、どちらにも染まってない中間を漂う。子供の未分化な時間。それが現実に一番近い状態。
メディアのように、誰かを正義、悪に分けるのが嘘の世界。その両者の境の無い、不確かな現実への帰還。
現実の不明確さ
ここで思い出したのが、シン・仮面ライダー。
庵野秀明の映画では嘘と本当が交錯する。旧エヴァではラストシーンで綾波レイもアスカも実写の女性になり、映画を見ている観客さえも映画の中に映し出される。シンエヴァンゲリオンでも実写の世界へ帰る演出は同様だった。
シン仮面ライダーは初めから実写だが、やはりいつもと同様、嘘から現実へ切り替わる。アクション映画では振付師が演技を指導し、そこには表現の型がある。それは生の動きではなく、表現として、現役者がより誇張した演技をするためのものだと思うけど、庵野秀明は、ラストシーンで型を使うのをやめさせ、演者自身にすべての演技を任せた。
僕は劇場で見たけど、そのシーンでは仮面ライダーと敵が子供の兄弟喧嘩のようにもみ合っていて、かっこいい動きのアクションはないし、荒い息でセリフも全く聞き取れなかったし、正直、見づらいとも思えるほどのものだった。でもこれは作られた嘘の複製品ではなく、生の演技。
NHKの密着ドキュメンタリーでは、型で演じてほしい振付師が庵野秀明の投げやりに完全にぶちぎれていたし、庵野秀明も泣いていたというが、嘘を嘘で通したい振付師と、嘘を破壊して現実の偶然性を物語に持ち込みたい庵野秀明の対立がある。
役者たちが持っている素に、型で上から蓋をしてしまうのではなく、役者たちからみた物語も入れることで、一方的な支配関係ではない物語へ変化する。
型も支えもない。虚構の足場を解体した現実の不確かさ、複雑さがここにある。
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