百瀬文の映像作品「山羊を抱く/貧しき文法」を見た
百瀬文の映像作品「山羊を抱く/貧しき文法」
戦時下に性的に搾取されていた山羊をインターネットで知ったことから映像が始まった。そしてヤギを犯している男性の絵を食用絵の具で紙に書き、それをヤギに食べさせようとする。しかしヤギは百瀬から逃げようとし、しまいには百瀬がその絵を破って食べ、咳き込んで映像は終わった。
これはどう受け取ればいいんだろう。いい気持ちはしなかった。
僕はヤギが可哀想だと思ったし、ヤギが拒んだ紙を自分で食べる行為には否定的な気持ちになってしまう。いい気持ちではなくても…彼女の作品は評価を受けているわけで、このひっかかりはなんだろう・・。
以前、惑星ザムザに出品されていた百瀬の作品を思い出してみる。
3dcgで作られたチューブ。それが赤いカーテンの前で湾曲して置かれた映像作品。画面が明滅し、片方の出口から女性の喘ぎ声が、もう片方の出口からは苦しむような声が聞こえる、恐らくそういった作品だったと思う。僕は、産道と、女性の性的なイメージと出産の苦しみと両方が出ているのかと思った。声はどんどん激しくなっていって、最後に光と共にワッと強くなった途端、無音の、ただ照らされた、普通のチューブがそこにあるだけだった。
この時は演出として、映像の終盤にかけての流れがいいと思って、でもそれ以上深く考えた記憶はない。そして、てっきりこの時が初めて百瀬文の作品を見たときだと思っていたが、そうではないらしい。
調べていくと、自分はもっとずっと以前に百瀬文の作品に出会っていたことがわかった。
「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと。」という映像作品。
これは以前、まだ僕が学生だった頃にムサビの袴田ゼミにお邪魔して見てせて貰った記憶がある。そうか、百瀬文は武蔵野美術大学卒だったのか、なんだか、少し納得してしまった。 そういえば、この時も、何か暴力的なスレスレのラインを感じていた記憶がある。。聴覚系の障害者を扱った映像だったが、最後に突き放されたり、ひっくり返されるような作品だったはずだ。
今まで見た3つの作品について記憶をめぐらせて思ったのは、映像の中で加害をめぐる二者関係についての交錯が次第に加速して、最後には弾けてしまう、「木下さん〜」では最後に(記憶がないが)驚かされ、今回も違和感を突きつけられた。
百瀬文のインタビューを読んでいていくつかのマゾヒズム、そしてgnckさんとの対談のタイトル「本当に見たいのは、グラスから溢れ出てこぼれてきてしまう予測不可能なしずくの部分」というセリフには、映像作品が終盤にかけて理解を超えていくことにもつながると思う。
その上で、関係性が反転することで見えるものがなんなのか、それはまだわからなかった。僕には。思っていた加害関係を最後に逆転させられて・・・「木下さん~」の作品も昔見て、今は見れないからはっきりと言えない。今回の作品も言語化できていないし、また百瀬さんの作品をどこかで見る機会があれば考えていきたいと思った。
7/30追記:美術手帖のバックナンバーを読んでいて、ケアについての特集の中で百瀬さんの作品にあてられたテキストがいくつかあった。コミュニケーションの危うさに直面し、恐怖することについてのコメント。その恐怖は、映画マトリックスでの赤い薬のような存在ではないかと書かれていた。社会へのケアとしての赤い薬。それを読んで、すこし納得した。
名和晃平とディスプレイ
あと、名和晃平、もしかしたら生で見るのが初めてかもしれない。中に本物の剥製が入っていることには今まで気付かなかった。
2枚目の箱の中で像の重なった作品がいいと思った。物の実在感が揺らぐ。
素材は多分、よくディスプレイに使われているフィルムだと思う。昔、モニターとか分解して遊んでいた頃、これと同じように像が違う角度で複数映るフィルムが入っていた気がする。でもそれで作品にできるとは思わなかったから、余計、この作品が気に止まった。
鹿の周りの丸い球も、ピクセルだと書いてあった。そう考えると、モニターのピクセル、モニターのフィルムに閉じ込められた剥製とでの繋がりも感じた。
百瀬文も名和晃平も、どちらも表面と向こう側、その堺が揺れ動く作品。まさにタイトルの通り被膜虚実だと思った。
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