シャルロット・デュマ「Ao 青」を見た/彼岸と馬、青い潮について

先週天王洲に行った。海沿いの倉庫ビルの中にギャラリーがたくさん入っている。いつもは貨物用エレベーターで入る場所だけど、その日は入り口が工事中で裏のエレベーターと階段から入った。

tomiokoyamagallery.com/exhibitions/dumas_tennoz2023/

シャルロット・デュマ「Ao 青」
2023.3.10 [Fri.] – 4.8 [Sat.]
これらの画像は同時開催されていた六本木の会場で後日撮影したもの。

友人が別の展示を見るのについていき、本当にたまたま目にしたんだけど、シャルロット・デュマの作品、これが本当に良かった。天王洲では映像作品が一つだけ、シアターみたいになって流れていた。だいぶうろ覚えだけど、内容はこんなだったと思う。

海と、島と、少女と。 馬と、青。

少女は砂浜を踊る。風を受けて、服をなびかせて、少女は風になっていた。

外国の血の入ったブロンドの髪の少女と、アジアの顔立ちの少女と、二人が森にいた。少女と同じくらいの大きさの大きな葉を、一枚一枚織り込んで、もう一人に見せていた。

一人の少女が、岩肌の険しい海岸に立ち、岩と岩の裂け目を下りていく。 海岸の岩には、ボコボコとした穴が空いていて、そこには青いガラスの球が埋まっていた。少女の手のひらにおさまるほどの青い球体。沈みかける陽が球体を通り抜けてきらきらと輝やいて、少女はそれを見つめる。

馬は孤独に砂浜を歩く。少女は馬のそばへ寄り添い、砂浜で踊る。

馬は少女を乗せて海へ降り立つ。少女を乗せた馬は対岸まで泳ぐ。

映像には言葉はなく、無言の時間が流れる。五感と生と、歴史の重なりがあった。

今日、六本木の小山登美夫ギャラリーで、同時開催された展示も見た。

こちらは映像と写真とドローイングの展示だった。

写真は天王洲で見た映像に近いイメージだったが、ドローイングは青の抽象だった。潮の流れのような、血のようでもあった。会場の写真はほとんどが少女と馬だったが、一枚両生類のような写真が目に止まった。海の中から、陸上へ進化する途中の生物を少女は手に取る。僕は、子供から大人へと移り変わる中間の状態をここから感じ取った。

※この展示はシリーズの最終回だったようで、映像には前作がある。僕はそれを見ていないので解釈に偏りがあるかもしれない。

頭から首へ、長く毛の伸びた馬の後ろ姿はまるで人間の少女のようでもある。宮崎駿は、少女は子供の頃は自由に野原をかけまわり、風と共にあったと話していたと思う。となりのトトロでは、サツキとメイは自由に森をかけまわり、ネコバスとともに空をかける風そのものになっていた。

しかし少女から女性へなると、いつしかそういった自由さは失われてしまう。

東野物語の一つに、ある少女が、飼い馬に恋をする話がある。少女は馬と肉体関係を持つが、それを知った父が馬を殺害してしまう。少女は馬の死を嘆き切り落とされた頭を掴むと、馬の頭は浮かび上がり、そのまま少女をのせて天へ登っていってしまうという話だ。

シャルロッテの映像では、崖から降りた少女は馬に乗って対岸へ渡る。この崖は、この島でかつて口減しのために女性を追いやった場所であり、ここで岸から岸へ渡ることは彼岸へ渡ることを意味する。馬は、向こうの世界へ少女を連れて渡る乗り物のようでもある。

少女は孤独な馬に寄り添い、彼岸の世界へ渡るのだ。

ブロンドの髪の少女と、アジアの少女が並ぶ姿はエコールを思いこさせ、海を渡る場面は思い出のマーニーのようでもある。

いずれの世界も、現代の近代世界とは隔絶されていて、青では馬、エコールでは列車、思い出のマーニーではボートを使って移動していた。思春期の少女が大人の女性へと移り変わる表現として、乗り物と彼岸というテーマがあるように感じた。

青い液体の染みはなぜこんなに美しいのだろうか。

これがもし赤い血だったら、現実的で、もっと激しいものになっていたと思う。ゲームsirenでも、人々が海を渡って常世の国へ行き、別の姿へ変化する描写があるが、そこでは海は血でできていて、赤い海だった。

最近見たドラマ、ツインピークスで印象的だった言葉に、ブルーローズがある。これは、ツインピークスの物語に登場する、自分とは瓜二つのドッペルゲンガーを指す言葉だ。青いバラはこの世界には存在しない。もう一人のまだ存在しない自分との移り変わり。そこに青がある。

これが赤いバラと青いバラではなく、人で例えるなら、赤い血と青い血の対比になる。

そしてエコールでは、この世界から別の世界へ行く準備として、少女の初潮、血が登場する。

彼岸へ渡る少女とともに、青い潮のようなドローイングが展示されることは、ツインピークスのブルーローズのように、少女の世界がこの現実世界とは隔絶された、非存在な、守られた別の世界での初潮を暗示しているようにも思う。

血は生を思い起こさせるが、青い血は、その逆になる。昔の特撮で血が現実の赤ではなく、青とか緑だったように、青い血は、フィクションと虚構の象徴でもあると思う。この作品が少女という、男性から性的に消費されやすいモチーフを扱いながらも、少女達が主体性を持って自由を獲得しているのも、ここでの色が赤ではなく青いことが、重要なのかもしれない。
青い血は肉体的な問題から少女を解放し、自由な映像世界の中にとどまる力を与えているのではないかと思った。

追記:ちょうど今日みたobさんの個展「となりあうもの」でも、少女と馬の絵があった。デュマの作品解説では、コロナ渦での人のつながりや、他者とのふれあい、動物との触れ合いについて言及されていたが、obさんの個展タイトルである「となりあもの」や、登場する動物たちには、共通した思想を感じた。→ob個展「となりあうもの」を見た | てつてつがく (tetutetugaku.com)

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