テセウスの船と人の記憶

入れ替わっていく記憶

好きな人の顔ほど思い出せないという。

それは人がその記憶を思い出す度に、脳内で配線が変わり、記憶が少しずつ書き変わって行くからだ。

現代人に発見されなかったラスコーの壁画は何万年と保存されていても、一度人々に存在を思い出され、人の行き交いに晒されれば、すぐさま呼吸や微生物に汚染されてしまい、状態が悪化していく。

ものを思い起こすことは、それに変化を与えることだ。

テセウスの船もまた、人々の記憶に残され、思い起こされたからこそ、劣化し、修繕され続ける。しかし、長い時の中で、ほとんどの場所が修繕、交換され、元の部位はもう残っておらず、全てのパーツが入れ替わってしまっていた。形はそのままでも、全て別の物で構成されている。果たしてそれは元の船なのか。

これは記憶にも言える。好きな物を自分の頭の中で何度も呼び起こせば、その度にその記憶を構成するニューロンは変化していく。何度も何度も呼び起こしたその好きだったものは。いつかは全て別物に変換されている。(chatGPTに質問を繰り返せば繰り返すほど、質問に含まれていた質問者の望みが答えに反映されて、かつて一つの真実だった答えは時間とともに様々な形態へ変化していってしまう。)

芸術作品についても同じことが言えるかもしれない。あらゆる作家の色彩、筆致、マチエル、構図、モチーフ等、オリジナルなものは中々存在しない。全てに何か元がありそのイメージを交換して作品が作られる。西洋の古典的な絵画の構図は、保存、修繕されている。腐敗した古いモチーフ、テーマを、その時代ごとのテーマに置き換えて残し続ける。美術史は、その保存の連続なんだと思う

草上の昼食 | remove (jugem.jp)

ミーム – Wikipedia

そのうえで、古美術品の修復を思い出した。あくまで現状維持で、破損個所をもとの状態に戻すことはないと以前TVで見聞きした。これは、もし破損個所の修復をしてしまえば、テセウスの船のように、元々あったものが少しずつ置き換わってしまうからだろう。

文化財 修繕 現状維持 – Google 検索

赤瀬川原平の超芸術トマソンは、その置き換わりと保存のちょうど中間に位置しているように思う。構成物が入れ替わっていく大都市東京の中で、残されていく痕跡。都市を保存するために繰り返される修繕工事と、過去の足取りを残そうという意思がせめぎあって生まれるトマソン。

落合陽一が「質量のあるものは壊れる,質量のないものは忘れる」と言っていた。人の記憶は情報だし、絵画の中で受け継がれる構図も記号のようなもの。テセウスの船ですら、大衆の中のイメージだけで、構成物は関係がない。受け継ぐことは、ある種そういう忘れるという行為を伴う。生命が持続するのに死が必要であるように。

そして、質量のあるものを残そうという意思。これがトマソンであり、古美術の修復にもつながる。

遅さと速さともいえる。

遅いメディア。それがアナログ。早いメディア。それがデジタル。

5/25追記シンゴジラのあの肉質を表現するために、3Dでモデリングする前に事前に3次元で模型を作ってもらってそれをもとにモデリングしたという話も近いように思う

質量のあるものは遅く、質量の無いものは早い。遅いものは可塑性が薄く、ピラミッドのように長く存在する。ポストイットに貼るか、アプリにメモか。キャンバスで悩むか、事前にphotoshopで悩んでから描くか。物の存在を質量に託すかどうか。

なぜ質量のあるものは価値があるのか。きっと、情報は情報をかたどることができないからだろう。人間の脳やコンピューターは可塑性のあるメディウムだが、それに情報を伝達するのに、ある程度の抵抗感のある、硬い、版が必要になる。その抵抗感はおそらく、質量という制限を伴ったものでないといけない。現実という制約が、情報に硬さを与える。人の言葉も、頭の中では不確定なイメージが、一つの完成形として口から吐き出され、事実という硬さを持つ。

情報が内側にある限り、それはブラックボックスであり、パラレルで触れることができない。それでは情報の伝達に使われる版ではなく、むしろ誰かのイメージを押し付けられるメディウムになってしまう。僕たちが深海や宇宙、森の奥地に様々なフィクションを与えるのは、それらが質量のある存在として感じていないからだ。

もしも隣人にたいしてあの家には宇宙人がいるなんてフィクションを作ってうわさを流せばとんでもないことになる。その時起きたトラブルなんかも、やはり質量をもっているものの抵抗だろう。

そうなってくると、昨今のインターネットでの分断もここに関与してくる。あらゆる他者が、質量を感じない世界が来ているのかもしれない。男女の未婚率の高さ、童貞の増加は男性の女性に対しての質量の無さであり、女性は理想のイメージ、または童貞にきつくあたイメージを押し付け、空想の投影対象になってしまっている。

情報化社会とは、大量忘却社会ともいえる。 

DOMUNEで昭和平成レトロの物品を収集する方が話していたのだけど、現代の大量消費社会で生まれたプラスチック製品は長く残らない。平成初期のプラスチック製品ももう消え始めている。電子系のおもちゃも、ゲームも、サービスが終了したり本体のメモリ蒸発により機能しなくなる。その点、本当の昭和のものは、しっかりと作られていてまだまだ現存している、と。

「ファンシー絵みやげ概論 20」新刊出版記念!実写版『平成レトロの世界 山下メロ・コレクション』 – DOMMUNE

ここでは新しいものほど忘れられていくという逆転が起きている。

また、AIの登場で、今までのネットでのコミュニティ、特にプログラマー系では人が来なくなっているようだ。人と接するよりも、AIに聞く方がいいと。

他者に直接的に触れる機会が徐々に減っていき、他者が情報化する社会。情報としての他者はつくりかえられ、元の形態を失っていく。ある種、これは近代を超えて、社会を再組織化する過程で必要な変化なのかもしれない。社会の忘却は、負の連鎖を止めてくれる可能性もある。また、もう少し、考えていきたい。

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