アピチャッポン・ウィーラセタクンの個展を見た

アピチャッポンの作品を初めて見たのは、岡山芸術交流だったと思う。その時、僕はzineのお店OFさんでグループ展をやらせてもらって、その設営の後に展示を見て回った。岡山芸術交流は一概に良いといえるものではなく、当時の市長の問題で色々もめていたようだったけれど、それでもアピチャッポンの《静寂という言葉は静寂ではない》という作品は一番印象深かった。

廃校舎を利用した展示空間で、アピチャッポンの作品は、まず暗室へ入ると窓があり、マジックミラー越しに教室が見える。

美術は見る者に何を求めるのか。岡山芸術交流2022が開幕|画像ギャラリー 11/27|美術手帖 (bijutsutecho.com)

じっと見つめているうちに、教室の窓から差し込む光が変化していった。ゆっくりと陽が落ちていくように、まるで本当にその時間を経験しているような感覚がした。そのまま見ていると、ふと教室の空間に何か、詩のようなテキストが浮かび上がった。マジックミラーの表面か、それが本当に空中に現れたのか、黒板に映し出されたのか、今では覚えていないけれど、まるで魔法を見ているような、そんな作品だったと思う。

あの時は、ただ良い体験をしたくらいに思っていた。

それから2年経って、先日森美術館のエコロジーの展示で再びアピチャッポンの作品を見た。

ベッドに電球を設置し、それに群がる虫たちの羽音をとらえた映像作品が流れていた。虫の数が多くて、羽音が絶えることがなかった。ずっと見ているうちに、虫の羽音は次第に群衆の声のように聞こえてくる。そして気付くとそれは人の声となり、タイのデモの民衆の言葉をしゃべっていた。しかしまた気付くと、それは元の虫の羽音となった。

それを見てから、単純に映像の美しさにも魅了されたし、そしてその背後にあるタイの政治的な問題にも関心が向いた。後日、アピチャッポンが監督を務めた映画「メモリア」も初めて視聴し、今回展示を見に来た。

「Solarium」

今回の展示タイトルは「Solarium」。

1981年の映画「The Hollow-Eyed Ghost」を元に構成していた作品群があった。アピチャッポンはこの映画を子供のころに見て、その記憶を元に作品化したようだった。いくつかのドローイングと映像作品がある。

映画は、医者が目を失った妻のために、患者の眼球を盗むという物語だ。なかなか妻にあう目が見つからず次々と殺人が繰り返されていく。やがて眼を失った患者たちの幽霊が彼を追うが、太陽が昇ると、幽霊たちは陽光の中で消滅する。

部屋の中央にホログラフ・フィルムを貼った映写用のガラスパネルが2枚重なっていて、両面からプロジェクターで映像を投影することで、部屋に幽霊を出現させる装置になっている。2つのパネルから構成されているため映像は2重に重なって見え、ガラスを透過して向こう側の壁面へ映し出された映像とも重なり、幽霊の存在の不確かさを感じさせる。

ヘッドフォンからは重低音が響き、強い振動音のようで、会場で聞こえるスタッフの声や、野鳥の声なども飲み込んで幽霊がその空間の一部になっていくような感覚がある。

現在の幽霊の起源について、おぼろげな霧の中に立ち現れるイメージが生まれたのは、プロジェクターが発明された頃だと、以前聞いたことがある。映像装置を作ることと、幽霊を作ることは等価であり、暗い暗室で映像を見る行為と、闇夜にしか現れることができず、本物の太陽の前では消滅してしまう幽霊もまた同じものなのかもしれない。

会場では、映画を元にした作品群とは別に、時を閉じ込めた写真作品もある。これらの作品は2分ほどから、1年まで、時間の連続を写真でとらえたものがそれぞれ透明な箱の中に閉じ込められている。

先ほどの光学装置とは違い、質量をもったこの写真は時間軸に沿って積層されていて、まるで地層のような扱いに見える。

ここで思い出したのは、映画「メモリア」で登場した遺跡採掘場のこと。人間個人の記憶やイメージは、実体を伴わず、まるで幽霊のように現れては消える。しかし、地中に埋もれている過去は、人の記憶とは違い幽霊のように消えたりすることはない。それは確かな質量を伴って積層されている。

タイについて

アピチャッポンについて、タイの政治的混乱の影響があると聞いた。実際、森美術館の映画ではデモの民衆の声が登場し、映画メモリアでも軍が交通を監視しているようなシーンがあった。

タイの歴史についてもざっくりと調べてみる

タイでは、社会的に地位の低い人々の支持を得たタクシン政権が2001年に政権を取ったが、既得権益を持った人々が大規模なデモを行ってこれに反発。その混乱のさなかに軍部がクーデターを起こし、実効支配したらしい。

その後も再度の選挙で、タクシン派が過半数を超えたにもかかわらず、司法が法律違反を理由に首相の辞職を要求し、政府は反タクシン派へ。軍部は憲法を破棄し、議会を解散し、民主主義を破壊していて、反タクシン勢力はそれを歓迎しているようだった。

アメリカでも社会的な分断で、低所得者の支持を得たトランプ側と、既存の民主党側との対立が起きていることに似ているように感じた。

メモリアでは、主人公は重低音の幻聴に悩まされていた。自分と周囲とで受け取っている世界の在り方がずれ、会話がだんだんと成立しなくなっていくことは、どこか政治的な分断とのつながりも感じる。

都市のシーンでは、事故で大きな衝撃音がした際、ある人物はそれに身構えたけれど、他のほとんどの大衆は一瞬目をやるだけで、特に様子をうかがうでもなくまた歩き出すというシーンがあった。幻聴に悩まされていた主人公はそこで足を止めて様子を見ていた。そこで、何かを感じ取る人と、それに対して無頓着である人たちの違いを感じた。

今回のSoloariumでも、映像作品を鑑賞するとき、ヘッドフォンをしてもしなくてもよいという説明が書いてあって、音を聞いて映像を見る人とそうでない人がいた。岡山で見た作品では、「DO WE DREAM UNDER THE SAME SKY」と書いてあり、同じ場所にいても僕たちは別々の物を見ていて、人によって感じている世界が違うということを示しているように感じた。

ギャラリーの受付にはアピチャッポンの書籍がいくつかあって、日本語のテキストもたくさん載っていた。幽霊についていくつかかいてあって、紙幣もアートも幽霊であるみたいなことがあった。国家だって、プロパガンダだって、全部幽霊みたいな物、その人によって別の物に見えているってことなのかなと思ったり。

本は森美術館で売っているようだったから、また今度行ったときに購入してじっくりと読んでみたい。

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